写真

 写真について考える。

 

 

 今まで幾度となく写真について考えてきたつもりであったのだけれど,おそらく向き合っているふりをして,きちんと向き合えてなかったのではないだろうか,と思ってのことである。

 

 

 ぼくはいつから写真が好きになったのだろう。

 

 

 写真に興味を抱き始めた決定的なきっかけを今,僕は思い出すことができない。断片的に覚えているのは,沢木耕太郎さんのノンフィクション,アメリカの報道写真家ロバート・キャパの写真を追った「キャパの十字架」を手にとったときのこと,「印度放浪」,「西蔵放浪」,「東京漂流」という三冊の本を読んだのちに辿りついた藤原新也さんの代表作,インドの情景を言葉とともに収めた「メメントモリ」を手に取ったときのこと,黒々とした装丁にちょっとした薄気味悪さを感じつつも,圧倒的な数の力で魅力を感じずにはいられなかった森山大道さんという存在を知り,その著作を追いかけるようになったことなどであろうか。

 

 

 これらの本を読むなかで,知らず知らずのうちに写真に興味を抱くことになった。

 

 

 あとは建築学科に所属していたがゆえに,いろんなところへ大人数で見学へ行く機会が多かったことも関係していると思う。

 

 

 とりあえず,記録のために写真を撮るのだ。その場に行ったのに何も残さないなんて,なんだかもったいないような気持ちになるから。おそらく当時,そこまで深く考えて写真を撮ってはいなかったと思う。

 

 

 自分で初めて買ったカメラは,NIKONの手のひらサイズの超小型のデジタルカメラで,あれは大学の一回生の時だった。

 

 

 ポケットサイズで軽いから,いつどこへ行く時でもカバンの中に入れていた。設定はほとんどいじれないし,画質は当時のIphoneの方が良い,というレベルではあったが,モノとしてのカメラを常時持つという意味で,このカメラはなくてはならない存在だった。

 

 

 僕はたぶん,「カメラ」そのものに対しては,あまり頓着がなかった。

 

 

 レンズがどうだ,センサーサイズがどうだ,デジタルズームの倍率がどうだ…という点ではなく,とにかく常日頃から持ち歩けて,気が向いたときにさっと撮れればいい。そう思っていた。

 

 

 だからこの超小型カメラは重宝した。やはりスマートフォンで写真を撮るという行為と,(どんなカメラであったとしても)カメラで写真を撮るという行為とでは,何かモチベーションのようなものが全く異なるのだ。

 

 

 研究室に配属されて,野外調査を行なうようになってからも,このカメラは記録用として重宝した。モノが軽いということは,それだけ使用される機会も多くなるのだと,たぶんそこで実感した。

 

 

 このカメラで撮った写真でよく覚えているのは,一回生の冬に同期6人で行った車の旅。その時にこのカメラで撮った写真は,撮れている写真以上に鮮明に記憶に残っているのはなぜだろうか。

 

 

 年月を経て,カメラのステップアップを図りたくなった。

 

 

 博士後期課程に進学して,多少の経済的な余裕が生まれたこと,今後研究を続けていくにあたって,ある意味ひとつの「飯の種」にもなりうる「記録としての写真」に対して,もう少し真摯に向きあいたくなった,ということが,その理由だろうか。

 

 

 数あるカメラの中から僕が選んだのは,RICOHのGRⅡだった。

 

 

 単焦点で「ズームができる」という可能性を自ら潔く排除することで,使う側にフットワークの軽さを要求する小型カメラ。あこがれている多くの著名人がこのカメラを愛用している,という点が決め手でもあった。

 

 

 そう,「あこがれ」という感情。これが,自分の意志とか自我とかにフィルターをかけている本当に大きな要因なのだ。

 

 

 つまり,それは本当に自分で体感して,自分の頭で考えたことなのか?誰かあこがれている人が言っていたことの受け売りそのものではないのか?という自問自答をせねばならないほど,僕は周りのあらゆるものに感化されて,自我とか自分の意志を見失っているのである。

 

 

 「お前は写真のセンスが無い」と,大勢の前で僕が撮った写真を見ながら,お酒の席で言われた経験がある。その場では空気を濁さぬよう,努めて笑顔で場の収拾を図ったが,やはりいつまで経ってもあの経験は僕の中に残り続けている。

 

 

 僕が写真を撮るうえで大切にしてきたのは,あこがれの人のひとりでもある森山大道さんが言っていることをそのままに受け止めた,「とにかく量を撮る」という部分である。

 

 

 量の無いところに質は伴わない。

 

 

 写真の本質とはアマチュアリズムであり,匿名性の高いものだから,そこに表現とか作者の色が意図的に入り込まない方が良い。

 

 

 そういうふうに理解して,視界に入るものすべてを撮ろうと,ノーファインダーでバシバシと撮る。膨大なミスショットの中に,ごくまれに何か光るものが見つかればいいと思って,GRⅡを手にしてから日々とにかく数多くシャッターを切り続けた。

 

 

 特に今回のようにどこか異国の地や普段はなかなか行けないようなお庭に行った際にはその傾向はさらに顕著にもなるため,今は膨大な数の写真がHDDの中で眠っている。

 

 

 しかし,ここでふと立ち止まって考える。確かに「量」を多く撮ってきたのだが,そこに「質」は伴っていたのだろうか,と。

 

 

 きっと,表現の世界に唯一の正解などなく,「センスが無い」というのはあくまでもひとつの物差しで測った結果に過ぎなくて,ただ価値観が異なるだけなのだと思うようにしていたのだが,最近はこの辺りについてよく考えるようになった。

 

 

 もし,「僕が本当に撮りたい写真」なるものが存在するとしたら,あこがれというフィルターによって信じていた(曲解というのかもしれないが)森山大道さんのようなスタンスは,おそらく僕自身の内面から出てきた「撮りたい欲求」そのものではないのだろう。

 

 

 なぜならば,これだけ量を撮ってきたのに実感を伴っていないのだから。僕自身へのフィードバックはどうやら撮った写真の量ほど多くはないということだ,つまり「質」が向上するような意識,撮り方ができていなかった,ということでもある。

 

 

 こんなことを考えるきっかけになったのは,ある写真家さんが関係している。

 

 

 彼はある日,自身が血液の癌であり余命がそう長くはないことを自身のブログで表明して以来,世間からあれよあれよという間に注目されてしまった人である。

 

 

 僕も彼のことはほぼ日のコンテンツで知ったし,最初は実をいうとそんなにも注目はしていなかったのだが,かれの話す言葉や彼の綴る言葉をみるたび,心のどこかで何か惹かれるものがあったのだろう,にわかに注目するに至った。

 

 

 幡野広志さんである。

 

 

 僕は,日々いろいろな文章を目にする中で特に気になったものはほぼ日手帳にその全文を書き起こすことにしている。

 

 

 最近,ほぼ日の長い長いコンテンツである「ネパールでぼくらは。」を読んでいた際に,永田泰大さんと田中泰延さんが幡野広志さんについて書いた記事を,かなりの文量ではあるのだが,書き起こした。

 

 

 そこで書かれていたのは,共通して「幡野さんはなかなかシャッターを切らない」ということだ。

 

 

 雄大ヒマラヤ山脈を目にして,「あれは撮れないですよ,無理無理。」と言う。

 

 

 彼がシャッターを切るタイミングというのはおそらく,目の前のものにただ圧倒されただけでは足りず,まずじっと見ること。考えること。

 

 

 そこから始まっているのではないだろうか。これはつまり,僕がよすがとしてきた「とにかく量を撮る」というスタンスとは字面のうえでは真逆なのである。

 

 

 今まで,何かを撮るときに少しでもじっと見て,考えたことがあっただろうか,と,この記事を読みながら,文面を書き起こしながら考えたものだ。

 

 

 写真というものに正解はないのだろう。

 

 

 「自分が本当に撮りたい写真とは」という問いかけも,何の意味もないばかばかしいものなのかもしれない。それでも,幡野さんの姿勢,まなざしは,僕を一度立ち止まらせるだけの何かを与えてくれた。

 

 

 単にまたそのまま感化され,幡野さんのようなスタンスを鵜呑みにするのでは今までの僕と何ら変わらない。そうではなく,本当に自身の心が動いているのか否か,問いかけるきっかけをもらえたのだと思っている。

 

 

 つまり,いまの僕は自分の中で明確な答えを持ち合わせてはいないし,おそらく答えは出ない中で,その都度その都度何かのスタンスに縛られずに心が動く方向にシャッターを切るということ。振り返った時に,それこそが結果的に自分のスタンスになっているのかもしれない,ということだ。

 

 

 先入観というものは,そのことについての思考を止めてしまうだけの力を持っている。

 

 

 何かの拍子に先入観を払拭できた折りに,思考がまた始まる。言葉として表明することで何かを確かめ,一度解体したのちに,また構築していけばいい。このプロセスを繰り返していくことで,より深く物事を考える姿勢や自由な思考を得ることができるのだろうと信じて。

 

 

 何かを感じたときは,言葉にしてみると面白い。受容するだけではいつの間にか思考が止まってしまうのだと,最近は都度思う。

 

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GRⅡの佇まいが好き。モノとしての存在感に惹かれているから所有している,という理由でもいいのだろう。