過程
明日,日本に帰国する。
ああ,なんという,待ちわびた文字を今,僕は毎日毎日お世話になったスターバックスコーヒーにて打っている。
今日,こちらの銀行カードとSIMカードを解約した,あとは明日の朝に寮のカギを返すことで,僕の厦門での2ヶ月にわたる生活は全て終わる。
そういえばSIMカードを解約したからスターバックスのWiFiを使えないことにいま気が付いた。後で大学のWiFiでアップロードするとしよう…。
ここ数日は少々ばたばたしていたから,なかなか文字を打つ時間を設けることが難しかった。いろいろと思うところはあったし,向き合うのもなかなかしんどいなとも思っていた。
まずは,やらなければいけないことをすべて無事に終わらせ,ここまで(一応)元気に過ごせた自分を,褒めに褒めたたえたいと思う。
今まで避けてきたいろいろな大事なことを,ショック療法的にここ2ヶ月で一気に摂取したような感覚である。
日本の外で,外国人として暮らすという経験はやはり得難いし,きっと自分ひとりではそんなことをしようなどとは夢にも思わなかったであろう。
幼稚園の卒園式,将来の夢を壇上で発表する場で「鳥博士になりたいですっ!!!」と叫んだ小さな少年は,紆余曲折を経てみるみる大きくなり,気が付いたら異国の地で鳥を見て,博士を目指しているのである。
人生,言ってみるもんなんだな…。僕はここに至るまで,どこまでもパッシブな態度を貫いてきた。環境に依存して,巻き込まれるがまま,自分の意思は最後の最後,何かを決定するときだけひょっこり顔を覗かせる。
厦門に行くというのも,自分の内から「本当に行きたい!!!」という感情が沸き起こて積極的に行動したわけでは全くなく,周りの人たちの勧めに乗っかって,とりあえず行ってみたというのが,発端であった。
途中で後悔することもそれはもうたくさんあったし,ちょっとした文化の違いに日々直面する中で,どんどん疲弊もしていった。
だから全部が全部とても楽しかったとは全くもって言えないし,帰りたくない気持ち,というものも今はほとんどない。
僕は一刻も早く帰りたい。これはたぶん最初から最後までずっと変わらない。
ホームシック中のホームシックであるくせに,ほかの人から指摘されたとたんにちょっと見栄を張って「別にホームシックではないですけど?」みたいな態度をとって,人知れずまた疲弊していくというよくわからないサイクルからいよいよ抜け出せるのである。
こんなにもホッとする気持ちがあるものなのか…!?と,今はその新しい境地に浸っている。
けれど。それとは別に,「また来たいかもな」という気持ちは,どうやらあるらしい。
こっちに友人もできたし,お世話になった人もたくさんいる。どこにいても何かしらのストレスはあるということはよくわかったし,自分の意思100%ではない状況に身を置くことで思考もクリアになることもわかった。
自分にとって必要なものについてもよくよく考えることができたし,何よりもこうして「文字として思考の軌跡を残すという遊び」に価値を見出せたことは,自分が慣れ親しんだ環境の外に身を置いたことでより素直に表明できている。
ここに残した言葉は,これから先,こちらで撮った写真や実際にあった事実などとはくらべものにならないほど,僕にいろんなことを思い出させるものになるのだろう。
僕はいままで,どちらかというと「過程」よりも「結果」を重視してきた。と言うか,割りと「過程」を蔑ろにしていたように思う。
けれど,今は少なくとも「過程」を蔑ろにする気持ちはなくなった。思えば,その萌芽はあるにはあった。
例えば,美術館で絵をみるとき,僕が楽しいのはその絵そのものをぼーと眺めるときよりも,筆の跡を至近距離で見るときだったりする。
絵が描かれる「過程」に思いを馳せることは,目の前にあるもの以上の大きな何かを想起させるし,受け取り手の想像力次第で得られるものはきっと変わるところが面白いと思っていた。
「氷山の一角」という言葉が割と好きで,目の前にあるものや何かしらの成果物に対して,見えているもの以上の何かを想像する姿勢は,コミュニケーションの場においても「思いやり」という形でリンクするな…と思っていた。
公表されている学術論文を読むときも,紙面に書かれている以上のバックグラウンドでの作業や苦悩を想像することで,論文を読むうえでのモチベーション維持につなげていた。
「過程」を蔑ろにしないというのは,想像力を磨くことにもつながり,優しさを育むことにもつながるのだろうと,今回の滞在で完全に思い至った。
こんなことして何になるのだろう…みたいなことも,とりあえずやってみる。
目に見える結果が伴わなくとも,その過程そのものにきっと価値がある。そして,目の前にいる人ひとりひとりに想像もつかないほどのいろいろな過程があるし,発した言葉,とった態度のひとつひとつに,その意味以上の何かがきっと含まれてもいる。
それを思うだけで少し背筋が伸びるし,自分の内面を成熟させることで人生をいくらでも豊かにできるのだろうなと,わくわくもする。
僕はたぶん,この2ヶ月であまり変わっていないと思う。必要以上に環境に染まることなく,何か屈曲した考えを抱いて帰ることもなく,「国とか性別,年齢問わず,みんないろいろあるんだな…」という漠然とした感想を抱いて,明日帰国する。
こっちで食べたいろんな料理,美味しかったな…。けれど,いま僕は出汁のきいたうどんが一刻も早く食べたい。
余裕
滞在は残り1週間。
もうすぐ帰れると思えば思うほど,時間の流れはゆっくりに感じる。
早く帰りたいのだけれど,なかなか時間の流れはそれを許してはくれない。
今回の滞在で得られたものは数えきれない。その中でも特に何回も考えたのが,特に大事ではないものが案外大事だったりするのかもしれない,ということだ。
本当に大切なものは何なのかを考えれば考えるほど,「唯一の本当に大切なもの」よりも「なんとなく大切な複数のもの」を身近に置いておく方が,心は健康でいられるのだろうということを,身をもって学んだ。
今回持ってきたモノは,ほぼ必要最低限であった。
僕は重い荷物を持つことが本当に苦手だ。できることならば,eastpakのバックパックに収まるだけの荷物を入れて,常に手はフリーでありたい,キャリーバッグとかボストンバッグとかも本当は持ちたくない。
でも今回の滞在は2ヶ月間,さすがにバックパックひとつというわけにはいかない。
だからせめて,携行する荷物はグラム単位でも軽くしようと努力した(薬の入れ物を変えたりポーチ類を極力減らしたり)。
特に必要のないものを荷物に入れるという選択肢は,最初から頭の中にあるはずもなく,それが今回大失敗だったなあと,滞在中に何度も何度も後悔した。
ああ,出国の直前に発売されたNintendo Switch Liteなんかを,もし買って持ってきていれば,もう少しいろいろなことを頑張れたのかもしれないなあなんて思っている。
特に大事ではないものとか,あまり生産的とは言えない時間とかが,暮らしの中でたぶん思っている以上に大切な要素だったのだ。
僕は休みを勘定に入れない悪い癖がある。
ちょっとでも時間ができると,貧乏性だから何か生産性のあることがしたいと思ってしまう。そう思いながらもスマホをいじったりエッセイを読んだりして,それに対してちょっとした罪悪感を抱く。
ああ,時間を無駄にしてしまった。本当はもっと頑張れるはずなのに,と後悔する。
このサイクルを続けていると,やらなければいけないことはなかなか進まない上に,長い目で見てどんどん疲弊していくということに,ようやく気が付くことができた。
休むときは思い切り休んだ方がいい。
その時自分の心が求めているものに素直になればいい。それが生産的であろうがなかろうが。そのほうが本筋でやらなけれいけないことも進むはずなのだ。
今回,無駄だと思いながらも持ってきてみた唯一の荷物がある。BICYCLEのトランプである。今回の滞在でのMVPは,このトランプかもしれない。
トランプとは日本での呼び方であって,正式名称はPlaying Cardと言うらしい。
僕がもってきたこのBICYCLEのPlaying Cardはヴィレッジヴァンガードで買った。ECO EDITIONでカード自体は再生紙でつくられており,印刷のインクは野菜からつくられ,ケースも燃やしてもダイオキシンを発生しない,全体的にとてもエコな代物らしい。アメリカ製である。
僕は今回の滞在中で,このPlaying Cardを一度たりとも誰かと一緒に使うことはなかった。
ひとりで狂ったように遊び続けた。Playing Cardを触らない日は一日もなかったのではないか。パソコン作業の合間にカードに触れると,とてもいい気分転換になるし,目の休息にも役立つ。
遊んでいたのはシンプルなソリティアであるクロンダイクとモンテカルロだけである。
クロンダイクは,かつてWINDOWSのPCにプリインストールされていた「ソリティア」そのひとである。調べてみると他にもいろいろと面白そうなゲームは見つかったが,この二つだけで十分に楽しめている。
1から13までの数字,4種類のマークで52枚のカード。これだけでどれほどの可能性を秘めているのか。
Playing Cardの歴史をざっと調べてみると面白い。その起源は中国らしいが,いまのような形になったのは1300年代にヨーロッパに渡ってかららしい。スペードとハート,ダイア,クラブの柄が採用されたものが流通しだしたのが1480年のフランスにおいて,ジョーカーの登場は1800年代らしい(BISYCLEの公式サイトより)。
Playing Card自体の使われ方は様々であり,時にマジックや賭博なんかにも使われているわけだけれど,例えば統計学や確率の発端は賭博に関する理解とも密接に関わっているから,面白い。
研究をやっていく中でダイレクトに関わる「不確実性」について,カードを触りながら想像するのもまた楽しい。
こんな感じでたとえモノはひとつであったとしても,使い手の工夫次第でいくらでも楽しくなったりいろんな用途に使える可能性を秘めているモノに僕は心惹かれる。
例えば,風呂敷とかひざ掛け,寝具代わりのインド綿製のただの布とか,時にアウター,寒い日のインナー,部屋着代わりにもなるウルトラライトダウンベストなど,多用途のものを携行する傾向にある。
荷物は軽くなるし,いざというときにいろいろ便利なモノ。でもそれを突き詰めすぎると,荷物の余裕と引き換えに心の余裕を失うことになる。そのバランスが難しい。
予定していた調査はあと一日で終わる。
けれど僕の厦門での生活はまだもう少しだけ続く。
心の余裕を取り戻すために,今日も僕は部屋でひとり,誰にも邪魔されることなく,ソリティアに勤しむだろう…。
研究
いわゆる“研究”というものを始めてから,そろそろ5年ぐらい経つ。
気が付けば5年も経っていた,おかげでどこかへ就職するタイミングも逃し,基本的なテーマは変わらずに博士後期課程までこうやってダラダラと続けている。
研究は嫌いではないのだと思う。
研究の根本的な部分に対して「もう嫌だ」と思ったことはこの5年間で一度もなかった。部分部分でしんどいことはもちろんあるけれど,いろいろなプロセスがあるぶん完全に飽きてしまうことはなく,ほどよい距離感で付き合うことができている。
そんな研究に対して,僕はいま何度目かのスランプに陥っている。道を見失っているのだ。
自分が勉強不足であるとき,自分の無力さを知り,とにかく先行研究のやり方を参考にして,目の前の論文を未熟なりにもつくりあげた。
このプロセスを経てある程度研究に対する基礎体力がついてきたころ,あまり悩むことはなく,自分の思う方向に進ませることができた。
それは,研究というものの概要を知り,自分の手で一度作り上げたことがあるという経験を根拠に,自分のやり方が正しいと思い込んでいたからだ。
そして今。僕はたぶん「自分のやり方が正しいと思うこと」を疑い始めている。
そんなものだから,いま研究が停滞している。言い換えれば,立ち止まって見直している,ということかもしれない。
たぶん,成長の過程としては「間違っていない」と思う。ここで一度立ち止まることができてよかったとも思っている,少々苦しい状況ではあるけれど。
僕が携わる研究において,「正解」とか「正しさ」,「理想」みたいなものは無いのかもしれない,というのが今の僕の中での漠然とした答えのひとつである。
つまり,そんなものはどの立場からものを考えるかによって変わりうる相対的な尺度であって,研究を始める段階の仮説,問いの設定の仕方そのものに関して,「正解」や「理想」を想定してしまうと,あらゆる方向から見て「すとん」とおさまりのいい知見を提供することはできないのではないか,ということだ。
たぶん,あらゆるものごとは「わかったことにしている」状態のものが多い。
僕たちはどこから来たのか,神は存在するのか,宇宙はどうやって始まったのか。そんな僕たちの存在そのもののルーツすら正確にわかることはできないのだ。
よくわからないというところが立脚点なのだから,何かしらの理想を振りかざした段階でどこかに主観が紛れ込む。究極に客観性をもたせることは不可能なのだろうし,それにこだわる必要も,多くの場合,ない。
それを目指さずとも,どこかで何かを犠牲にすることで,研究の成果そのものは誰かの役に立つのだから。
ただし。僕の専攻は景観生態学(Landscape Ecology)である。
この分野において鍵となるのは,人間と自然という,西洋的には両極端に位置するもの同士の関係性を扱う,ということである。
先に述べた“何かを犠牲にして”という部分に関しては,人間の生活を優先させるような「正解」を用意すると自然を犠牲にすることになるし,逆に自然の存在に重きを置いた「正解」を用意すると,いまの社会様式からすると実現不可能なでたらめな知見を提供することになってしまう,というジレンマがある。
つまり,「人間と自然の両方にとっていい状態」を目指すのが,この学問領域における基本であり,おそらく「人間の生活を快適にする」という側に重きが置かれている。
持続可能性(Sustainability)という言葉は,まさに人間と自然の双方にとって「まだ」良い方向へ導くための便利な言葉であるといえる。
ただし,厳密にいうと自然に対してのインパクトがなくなることはないわけで,この辺りは考えだすと非常にデリケートな問題にもつながるし,どの立ち場から語るかによって善悪は変わるわけだから,簡単に「正解」を見つけることはできない。
自分が(おそらく)生涯携わるであろうテーマとして,この辺りの問題は簡単に解決できるものではないぶん,やりがいはあると思う。
だからたった5年考えただけで何か大層な「答え」が見つかるわけもなく,目の前に広がる広大な海の存在を知ることができただけでも,自分の中では成果が得られたと言っても構わないと思う。
「正解」が無いなりにも何かしら有効な問い,仮説は考えるに越したことはない。
人間と自然を取り扱うにあたって気になるのは,西洋と東洋の自然に対する考え方の違いと気候風土の違いである。
多くの場合,西洋的な社会において,自然は「征服する対象」であるのに対して,東洋的な社会においては「基盤となるもの」なのだと思っている。
景観生態学自体はアメリカにおいて産声をあげた学問であるから,自然は人間の手によってコントロールできるもの,デザインできるものとして捉えられているような雰囲気を感じる。
しかし,日本の温暖湿潤な気候下において,同じように考えてもよいものなのだろうか。
よく例に出る二次的自然(人の手が加わってはじめて成り立つ自然)としての里山(Satoyama)は,この辺りの感覚を紐解いていくうえでわかりやすい。
人間は自然の恩恵を受けつつも,自然にも多少のメリットを与えるという共生の形は,人間to自然という一方向の関係性ではない。
ただし,このシステムも現代のライフスタイルに当てはめたときに持続的に成立させていくのは困難であり,里山を放棄して都市に人が集中するとどんどん生物多様性が失われていくという負の循環は止まらない。
また,日本は災害大国でもある。いくら都市において快適な居住空間を整備しようとも,自然の猛威の前ではそのすべてを守り切ることはできない。
生態系減災(Eco-DRR)というキーワードが世界的に見直されている現状をみるに,自然から切り離された都市というのは,長い目でみて効率的なシステムではないのだろう。
自然とうまく付き合いつつ,人間も快適に生活できる,という状態を目指そうと思えば,あらゆる周辺知識を仕入れざるを得なくなることに気が付く。
きっと,何かひとつの最適解を求めるのではなく,選択肢がいくつもある状態のほうが長い目で見て望ましいのだろうとも思う。それが何を表すのか,いまはまだわからない。
博士論文をまとめていくにあたって,まず僕にできるのは「ただ現状を示す」ことだ。
結局ここがまずスタート地点である。都市の中で鳥を数えて,どんな種がどんなところにいるのかを示す。そこからどのような方向に話をもっていくのかは,これから周辺知識を蓄えていく中で慎重に考えていくしかない。
最近は人間と自然という二項対立ではなく,もう全部一緒くたにして考えたほうがいいのかもしれないと思いつつある。
人間の生活圏の中にある自然をただただ記述する。人間もまた環境の一部であると捉える。そんな状態をスタート地点として,何か「納得のいく問い」を考える。東洋的な考え方,と僕は自分の中で呼んでいる。
では,その「納得のいく問い」を考えねばならない。
そのために,きっと僕はまず,既往研究で得られている成果を片っ端から見直し,自分が調査した現状の中から何かしらの傾向を見出し,これらを照合する必要があるのだろう。
この両方を合わせて,「問い」に昇華させる。複数の主観を合わせて,疑似的に客観に結び付けるというやり方で,ある程度客観的な問いを見出せるはずだ。
なんてことはない,これは研究の基本でもある。基本に立ち戻ってしまったわけだ。
あとはその問いが,実際に解決可能かどうかという点が最も重要だ。そしてこれを解決できるのは僕ではない。研究で得られた知見が誰のためのものなのか,それはどのように役に立つのか,「自分」という枠を超えてものごとを見通すことができるようになれば,きっともっと見通しはよくなるのだろう。
少しアタマの整理ができた。しかし,スランプ脱却はおそらくまだ先のお話…。
ストレス
いつの間にか,年が明けていた。
中国では年末年始,特にイベントごとがあるというわけでもなく,授業も普通に開かれている。
こちらのお正月はいわゆる春節というものらしく,冬休みもそれに合わせて設定されている。
だから,日本での時間の流れの感覚とは少し違うのだ,ちょうど僕が帰るころ,こちらでは休みが始まり,日本では休みが終わっている。
休みと休みのはざまでずっと動き続けるのも癪だから,年末年始は本当に何もせずにダラダラと過ごしていた。
最近はストレスについてよく考える。
慣れない海外での生活は,僕に明らかなストレスをもたらしている。悲しいことにそれは毎日の抜け毛・切れ毛の量を見ることで,リアルにわかる。あー,こんなにもダイレクトに身体に響くものなのかと,むしろ感心しながら見ていることしか今の僕にはできない。
こちらに来た時から感じてはいたのだが,日本では常日頃感じていた対人関係に関するストレスはこちらではほぼ全くと言ってもいいほどに無い。
まあ言葉できちんとコミュニケーションがとれないから感じようもないのだろうけれど,それにしても周りの人たちは基本的にみんな親切だし,環境に対するストレス以外は日本にいるときのほうがよほど多いと感じる。
きっと,どこで何をしようと,あらゆる形でストレスはついてまわるのだろう。
日本に無事に帰ったあとも,僕はやらなければならないこと,考えなくてはいけないこと,解決しなければならない問題がいくつもある。
環境に対するストレスが減る分,こういったタスクに関わるストレスがすぐさま僕にのしかかってくるであろうことは想像するに難くない。
だから,日常を快適に過ごしていくうえで「完全に元気」という状態を前提として考えるのはおろかなのだろう。
「ストレス解消」のアクティビティを考えてうまく日常に取り入れて,「ある程度健康な日常」を目指すことが大切なのだろう。
ストレスに関して前々から考えていたことがある。
それは,「あえてストレスを求める気持ち」というものも存在するということだ。
ストレスがすべて悪者でもないのではないかと僕は思っている。例えば。僕は調子が悪くなると無性にRPGをやりたくなるという習性がある。
それもただプレイするのではなく,何か自分の中で制限を課すのだ。例えば,低レベルでクリアを目指すとか,~しか使わない,~は使わないなど,少々苦労しなければ最後まで進めないという状況を自分で作り出し,ギリギリを楽しみたいという欲求がある。
簡単に勝ってしまうのはなんだか面白くなくて,多少困難な問題をつくったうえで自分の工夫で何とかして解決するというプロセスを経ると,いつのまにか心が軽くなっている,という毎回の流れがある。
これは自分であえてストレスを設けていることに他ならない。ストレスを乗り越えると,ちょっとした達成感が得られる,ということを,このプロセスで簡易的に体得しているのだろうと僕は理解している(余談ではあるが研究にも似たような性質があると最近気が付いた。研究がゲームに似ているのか,ゲームが研究に似ているのか…)。
ストレスとうまく付き合うストレス社会。きっとこれから先,自分の工夫だけではどうにもならないことだらけなのだろう。
そんなとき,少しでも自分の身を守れるような予防線は張っておくに越したことはないと思って,普段身に着けるものやルーティン,身の周りの環境に関するあれこれに関しては常日頃から気を配っている。
厦門で生活する中でも,慣れない環境下であっても自分を見失わずになんとかなっているのも,こういった予防線のおかげともいえる。
特に我ながら素晴らしいなと思うのは,鳥の調査をするときの服装と道具である。
屋外で快適に調査することに関しては,今までこれ以上ないぐらい考えつくしてきた。
おかげで,慣れない異国の地であっても今まで培ってきたポテンシャルを十分に発揮できていると感じる。
こういう慣れない環境下に置かれるというストレスにさらされて初めて意識できた,自分のポテンシャルを発揮するための条件は,今後何かの役に立つ予感がしている。
ともあれ,厦門滞在の残りの日数が2週間を切った今,ようやく希望が目に見える範囲にあると感じられるようになった。あと,少し。
本
最近はもう本ばかり読んでいる。
本当に便利なもので,香港経由で通信できるSIMカードと電子書籍リーダーのKindleさえあれば,ここ厦門からでもあらゆる本を購入・ダウンロードすることができる。随分と活字に救われている毎日である。
僕は普段,あまり日本の作家によって書かれた小説を読まない。
なぜだか自分でもうまく説明はできないのだけれど,海外の作家のものを好んで読む。
日本の小説の描写のリアリティが苦手だったのかな,どちらかというと海外の作家のものの方が適度なフィクションとして没入できる気がする。
日本の作家の小説はあまり読まない代わりに,エッセイや紀行文,ノンフィクションやルポルタージュは普段からよく読む。
こちらはむしろ,身近なリアリティのあるものとして素直に受け入れて,没入せずにさらっと読めるところがいい。特にエッセイの類は,疲れている時によく読むことが多く,僕はこれを「心のスナック菓子」と呼んでいる。
こちらに来てダウンロードした書籍を挙げてみよう。
・新日本聖書刊行会「新約聖書 新改訳2017」,新改訳聖書センター
・セルバンテス著,片上伸・島村抱月訳「ドン・キホーテ」,古典教養文庫
・浅生鴨「どこでもない場所」,左右社
・星野源「そして生活はつづく」,文春文庫
・ロバート・ムーア著,岩崎晋也訳「トレイルズ「道」と歩くことの哲学」,株式会社エイアンドエフ
・フィリップ・K・ディック著,浅倉久志訳「アンドロイドは羊の夢を見るか?」,早川書房
・ウィリアム・ギブスン著,黒丸尚約「ニューロマンサー」,ハヤカワSF文庫
・ジョシュア・フィールズ・ミルバーン,ライアン・ニコデマス著,吉田俊太郎訳「minimalism 30歳からはじまるミニマルライフ」,フィルムアート社
・田中泰延「読みたいことを,書けばいい。」,ダイヤモンド社
ジャンルレス,雑多なラインナップ。
あまり読まないと言っていた日本の小説もいくつか入っているし,読んだ方がいいのだろうと思っていた古典系もある。あとは相変わらず心のスナック菓子も少々…。
これらは何もすべて定価で入手したわけではなくて,仕組みはよくわからないし調べようとも思わないのだけど,電子書籍は時折随分と安く購入できるタイミングがある。
Amazonのほしいものリストになんとなく読みたいものを放り込んでおいて,日々それを覗いていると,運が良ければ安くなっているときがある。
その時に買うので,これだけ買ってもそこまでお財布に響いているという感じではない,と,思う,たぶん。その偶然感が結構好きで,あえてあまり深く知りたくはないのだ。
最近意識しているのは,自分が読みたいと思ったもの以外に積極的に当たってみようという姿勢である。
自分の好きな作家とか自分の好きなジャンルばかり読むのは確かに心地よいのだけれど,僕はまだまだ若く,そして未熟である。
そこらへんの価値観が凝り固まってしまうのが怖い。
自分の価値観をつねに刺激して,ある程度芯はあるものの常に柔らかいものにしていたい。自分のあまり読まないジャンルを頑張って読んでいると,普段あんまり考えないことを考えさせられることが多いのだ。
僕の読書体験のおそらく原点であり,視野を大きく広げる手助けをしてくれた場所のことを書いてみる。
そこは,今はもうなくなってしまったが,覚えている限り高校三年生の時から8年ぐらいは通ったであろうか。かつて大阪に存在した「スタンダードブックストア」である。
本,雑貨,カフェ,トークショー。いろんな要素がその空間には詰まっていたし,何よりも自由であたたかかった。
学部生の頃は休日のみならず気が乗らないときは平日もよくここにきて,カフェでコーヒー片手に何時間も本を読んだ。
鳥の調査を始めてからも,帰りには必ずここでカレーやサンドイッチを食べて,店で売られている本をカフェでずっと読むことで心も身体も癒されていた。
知人・友人もよくここに連れていった。みんな一様にいい場所だ,また来たいと言ってくれた。
お店の人たちも絶妙な距離感で接してくれた,深く干渉はせず,そっとしてくれる感じも大好きだった。
思い返せば,本当に幸せな時間だった。ここがなくなると聞いた時のショックは非常に大きく,それでもいつか慣れ親しんだ場所から飛び立つことも必要なのかもしれないと自分に言い聞かせて,納得させようとしたが,今でもまだ帰りたい気持ちは残っている。
ここと同じ雰囲気の場所を,僕はまだ知らないし,ここがなくなってしまった今もやっぱり僕はここと同じような場所を探し続けている。
本店は心斎橋にあって,茶屋町と阿倍野にも分店があった。どこの店にもよく行った,特に茶屋町は本当に足繁く通った。僕が好きな本の少なくとも6割ぐらいはここで出会っているんじゃないかな。
本当に多くの本をカフェで読ませてもらったし,もちろんお金に余裕があるときは購入もした。僕の習性のひとつである,「疲れたらコーヒーと読書」というのは,まちがいなくここ発祥であろう。
世界にはたくさんの素敵な本屋があると聞く。サンフランシスコのシティライツブックストア,パリのシェイクスピアアンドカンパニー書店は,どちらも文化的な背景を込みにして僕にとってあこがれの場所で,まだ行ったことはないがいつか必ず訪れたい場所である。
結局,本と本屋とカフェは僕のインフラなんだと,わかってはいたが改めて実感している。
ところで,本に対する感じ方は様々で,好きな作家の本を盲目的にいいと感じたり,世間的に評価の高い本をいいものだと思い込んでいる場合もある,と最近うすぼんやりと思っている。今まで読んだ中で,面白い,というか特に記憶に残っている本を列挙してみる。
・F・スコット・フィッツジェラルド「夜はやさし」,KADOKAWA
ぱっと思い浮かんだのがこの5冊で,その共通項は「情景を思い返せる」という部分だ。
理由はわからないが,ストーリーはうろ覚えでも断片的な情景は強く頭の中に残っているし,どれもどちらかというと物悲しい風景で,温かみのある色合いだ。
本を読むとき,僕はあまりストーリーには拘泥せずに「情景」を頭の中で思い浮かべる方に労力を割いているのかもしれない。それがばちっとはまった時,強く頭に刻み込まれるのだろうか。
あと,おそらく感覚的に好きなのだろうけれど,未だ深く理解することはできず,何度も読み返したりあえて手放して頭の中でぼーっと考え続けている本,というものもある。これは訳者や出版社関係なく,
・ヘンリー・デイヴィット・ソロー「森の生活」
・ジャック・ケルアック「路上」
の3作品だ。どれもいろいろな文化やいろいろな人たちの作品・思想に影響を与えている本である。これらははじめ,すべてスタンダードブックストアで入手した。そういう意味でも,僕にとっては特別なのだ。
本はたぶん,読まないよりは読んだ方が豊かな心を得られるものなのだと思っている。
けれど,どれだけたくさんの本を読んだかとか,古典や名作を読んでいるか読んでいないか,という部分で他人と比較して,読んでいる方が優れているという認識をもってしまうのは,これは違うんじゃないかと思っている。
確かに,本を多く読んでいる人の方が対話をしていて面白いと感じるし,この人にはかなわないな。。。と思ってしまうのは事実である。
そうであったとしても,そこで劣等感や優越感を感じていては,コミュニケーションが進まないし,どちらの立場であろうが歩み寄ろうとする姿勢はあってもいいのだと思う。
これまで接してきた大人たちの中で,不勉強な僕を前にして明らかにこちらを無下にするような態度をとってくる人もいたが,そうはなりたくないな…と思っている。
知識を誇示するための読書ではなく,人生を豊かにするための読書。それを実践するためにもいろんな作品に触れて,いろんな読み方をして,価値観が凝り固まることの無いようにしたい,と,ここ厦門の寒い部屋の中で思う。
音楽
ホームシックというのは,置かれた環境に疲れてしまい,慣れた環境に帰りたくなる状態のことをいうのだろう。
そうだとすれば,僕はいまそのホームシックにすら疲れてきた。つまり,どうせ帰れないのであれば,日本を恋しく思うのは体力の無駄であると気が付いたのである。
置かれた環境に疲れてしまった際の対処法は,①自らその置かれた環境を離れるか,②どうにかこうにかしてその置かれた環境下で順応して面白おかしく生活していくか,の2択であろう。
今は②しかありえない,離れられない理由があるから,工夫してこちらでの日々を楽しく過ごしていくことに決めた。
まず,こだわりをある程度捨てることにした。
しんどいのは「せっかく海外に来たのだから~」という言葉の呪縛である。
何も中国に来たからと言って,毎日中国らしいものを選んだり食べたりする必要はないのである。
イタリアンを食べようが日本ぽいものを食べようが,とにかくストレスフリーであればそれでいいのである。こんなこだわりを持つには,2ヶ月という期間は少々長すぎるのだ。
あと,こちらでしかできない体験を毎日する必要も,ない。
一日部屋にこもって本を読みたいという衝動を否定してはいけないし,実際その通りにしたほうが頑張りを持続できるということもわかった。
生活とは,休むこと,できる限り心穏やかにいられるような余暇を設けることも込みなのだ。
そんな中,こちらに来て僕を救ってくれているのは音楽である。
日本で,Wi-Fi環境下でダウンロードしてきたものしかほとんど聴かないのであるが,ルームメイトがいないことを幸いに,Bluetoothのスピーカーを日々ジャカジャカ鳴らして聴いている。
段階に応じて,特に救われる音楽というのは推移する。
序盤はNIGO®さんがプロデュースした1966カルテットの,ビートルズのカバーのアルバムをよく聴いた。
僕の両親は,ドンピシャの世代のひとまわりほど下なのだが,ビートルズに首ったけで,幼い頃から家ではビートルズがよく流れていた。
そんなこともあって,ビートルズのメロディは,なんだか無性になつかしく感じるし,それを抜きにしても1966カルテットの演奏は(あと容姿もね、)美しい。
ビートルズは,おそらく僕の想像以上に,ある一定の年代のひとたちの人生に多大な影響を及ぼしているのだと思う。
その断片はきっと,知らず知らずのうちに僕が触れるあらゆるものにも含まれているのだろう,なつかしさの根源はそのあたりとも関わっていると僕は考えている。
序盤から中盤にかけては,鈴木慶一さんが総合プロデュースしたアルバム,『MOTHER』をよく聴いた。
こちらにいる間の娯楽として,ほぼ日刊イトイ新聞の過去の記事を随分と読みなおした。
その中でゲーム『MOTER』に関わる記事も改めて数多く読み直したのだ。
僕の中で『MOTHER』は2しかきちんとプレイはしていないのだけれど,あまりにも大きな存在であることは間違いない。
たぶん,あこがれのひとつの形が,『MOTHER』というゲームなのだと思う。
『MOTHER』をやったことがある,『MOTHER』が好きと表明する同年代の人には,今までひとりしか会ったことはないのだが,そこの感性が合うというだけで,あらゆることを説明せずとも共感できる安心感があるぐらい,ひとつのものさしになり得る。
アルバム『MOTHER』はトラック11にゲーム音源(当時はファミコンのスペックでは同時に鳴らせる音は3音プラス,ノイズという状況からは考えられないほどの広がり,深み,重みを感じる,これは鈴木慶一さんと田中宏和さんの合作の賜物なのだ)が詰まっているのであるが,それ以外は鈴木慶一さんがディレクションした海外アーティストによるボーカルと演奏による再録という内容であり,ロンドンでレコーディングしたという経緯がある,本気なオトナの一枚なのだ。
僕はAmazon Musicで聴いているのであるが,残念ながらトラック10にあたる『MOTHER』の中でも非常に重要な『エイトメロディーズ』が収録されていない(おそらく権利の関係だろう)。
そこは非常に残念ではあるが,特に音楽に造詣の深い人が本気でつくった一枚を,いろんな思いを馳せつつ聴く時間は得られるものが多いのみならず,単純にもう心地よい。
そしていまはもっぱら,私立恵比寿中学のNewアルバム『playlist』をずっと聴いている。
限られたデータ通信量を消費してでも,ダウンロードしたかいがあった。
もうエビ中に対して客観的な視点でもって語る言葉を僕は持ち合わせてはいないのだけれど,今回のアルバムもまた,素晴らしい。
ビッケブランカやポルカドットスティングレイ,マカロニえんぴつ,PABLO,川谷絵音などジャンル問わずさまざまなアーティストによる毛色の違った提供曲によって構成されたこのアルバムは,一枚通しで聴いて,ストンと収まる感覚。
野外調査をしていると実感するのであるが,体力的にもう限界というときでも,音楽を聴くと一時的にまた動くことができるようになるということが多々ある。
その後の身体への反動は言うまでもないが,音楽は僕にとって,カンフル剤として欠かせないものであるらしい。
旅と滞在
今回,大きく履き違えたなあと感じるのは,「旅」と「滞在」の違いである。
必要最低限のものだけを携行して,現地でいろいろなことを嗜むのが「旅」だとすれば,「滞在」はそこに日常とか生活の断片が組み込まれる余地がある状態のことをいうと思う。
今回,自分の持ってきたものを見返すと,調査・研究以外の時間を持て余している状況を鑑みると,どうみても「旅」を前提とした荷物量・気構えなのである。
2ヶ月ちょっとという期間は,「旅」ではなかったのだ。
だから,ここにきていわゆるホームシックという状態に陥っている。認めてしまおう,ホームシックなのだ,いつだって,帰りたいのだ。。。
こういう海外での単身での中・長期滞在というのは,おそらく向き・不向きがあるのだろう。僕は初めからわかっていたが,圧倒的に後者なのである。いろいろ騙し騙しでここまできたが,やっぱりしんどいものはしんどい。
だから,変に強がったり我慢したりするのではなく,一度認めてしまうことにした。
僕は,海外での生活はおそらく不向きであり,いまホームシックにかかっているぞ,と。
そこからがまたスタートで,では帰るまでにいかにして面白おかしく乗り越えていくべきなのか,考える段階にきていると思う。
折れさえしなければ,何度でもくじけたりいじけたりしてもいいのだ,折れさえしなければ。
何もただ苦しいだけではない,苦しい思いをする中で,自分にとって,自分の“生活”にとって“無くてはならないもの”がいったい何なのか,見えてくるものだとも悟った。
滞在は残すところあと30日。
決して短くはないが,もう半分を切っていると思えば,そこまで長いわけでもない。肩の力を抜いて,ゆるりと過ごせればと願うばかり。