研究

 いわゆる“研究”というものを始めてから,そろそろ5年ぐらい経つ。

 

 

 気が付けば5年も経っていた,おかげでどこかへ就職するタイミングも逃し,基本的なテーマは変わらずに博士後期課程までこうやってダラダラと続けている。

 

 

 研究は嫌いではないのだと思う。

 

 

 研究の根本的な部分に対して「もう嫌だ」と思ったことはこの5年間で一度もなかった。部分部分でしんどいことはもちろんあるけれど,いろいろなプロセスがあるぶん完全に飽きてしまうことはなく,ほどよい距離感で付き合うことができている。

 

 

 そんな研究に対して,僕はいま何度目かのスランプに陥っている。道を見失っているのだ。

 

 

 自分が勉強不足であるとき,自分の無力さを知り,とにかく先行研究のやり方を参考にして,目の前の論文を未熟なりにもつくりあげた。

 

 

 このプロセスを経てある程度研究に対する基礎体力がついてきたころ,あまり悩むことはなく,自分の思う方向に進ませることができた。

 

 

 それは,研究というものの概要を知り,自分の手で一度作り上げたことがあるという経験を根拠に,自分のやり方が正しいと思い込んでいたからだ。

 

 

 そして今。僕はたぶん「自分のやり方が正しいと思うこと」を疑い始めている。

 

 

 そんなものだから,いま研究が停滞している。言い換えれば,立ち止まって見直している,ということかもしれない。

 

 

 たぶん,成長の過程としては「間違っていない」と思う。ここで一度立ち止まることができてよかったとも思っている,少々苦しい状況ではあるけれど。

 

 

 僕が携わる研究において,「正解」とか「正しさ」,「理想」みたいなものは無いのかもしれない,というのが今の僕の中での漠然とした答えのひとつである。

 

 

 つまり,そんなものはどの立場からものを考えるかによって変わりうる相対的な尺度であって,研究を始める段階の仮説,問いの設定の仕方そのものに関して,「正解」や「理想」を想定してしまうと,あらゆる方向から見て「すとん」とおさまりのいい知見を提供することはできないのではないか,ということだ。

 

 

 たぶん,あらゆるものごとは「わかったことにしている」状態のものが多い。

 

 

 僕たちはどこから来たのか,神は存在するのか,宇宙はどうやって始まったのか。そんな僕たちの存在そのもののルーツすら正確にわかることはできないのだ。

 

 

 よくわからないというところが立脚点なのだから,何かしらの理想を振りかざした段階でどこかに主観が紛れ込む。究極に客観性をもたせることは不可能なのだろうし,それにこだわる必要も,多くの場合,ない。

 

 

 それを目指さずとも,どこかで何かを犠牲にすることで,研究の成果そのものは誰かの役に立つのだから。

 

 

 ただし。僕の専攻は景観生態学(Landscape Ecology)である。

 

 

 この分野において鍵となるのは,人間と自然という,西洋的には両極端に位置するもの同士の関係性を扱う,ということである。

 

 

 先に述べた“何かを犠牲にして”という部分に関しては,人間の生活を優先させるような「正解」を用意すると自然を犠牲にすることになるし,逆に自然の存在に重きを置いた「正解」を用意すると,いまの社会様式からすると実現不可能なでたらめな知見を提供することになってしまう,というジレンマがある。

 

 

 つまり,「人間と自然の両方にとっていい状態」を目指すのが,この学問領域における基本であり,おそらく「人間の生活を快適にする」という側に重きが置かれている。

 

 

 持続可能性(Sustainability)という言葉は,まさに人間と自然の双方にとって「まだ」良い方向へ導くための便利な言葉であるといえる。

 

 

 ただし,厳密にいうと自然に対してのインパクトがなくなることはないわけで,この辺りは考えだすと非常にデリケートな問題にもつながるし,どの立ち場から語るかによって善悪は変わるわけだから,簡単に「正解」を見つけることはできない。

 

 

 自分が(おそらく)生涯携わるであろうテーマとして,この辺りの問題は簡単に解決できるものではないぶん,やりがいはあると思う。

 

 

 だからたった5年考えただけで何か大層な「答え」が見つかるわけもなく,目の前に広がる広大な海の存在を知ることができただけでも,自分の中では成果が得られたと言っても構わないと思う。

 

 

 「正解」が無いなりにも何かしら有効な問い,仮説は考えるに越したことはない。

 

 

 人間と自然を取り扱うにあたって気になるのは,西洋と東洋の自然に対する考え方の違いと気候風土の違いである。

 

 

 多くの場合,西洋的な社会において,自然は「征服する対象」であるのに対して,東洋的な社会においては「基盤となるもの」なのだと思っている。

 

 

 景観生態学自体はアメリカにおいて産声をあげた学問であるから,自然は人間の手によってコントロールできるもの,デザインできるものとして捉えられているような雰囲気を感じる。

 

 

 しかし,日本の温暖湿潤な気候下において,同じように考えてもよいものなのだろうか。

 

 

 よく例に出る二次的自然(人の手が加わってはじめて成り立つ自然)としての里山(Satoyama)は,この辺りの感覚を紐解いていくうえでわかりやすい。

 

 

 人間は自然の恩恵を受けつつも,自然にも多少のメリットを与えるという共生の形は,人間to自然という一方向の関係性ではない。

 

 

 ただし,このシステムも現代のライフスタイルに当てはめたときに持続的に成立させていくのは困難であり,里山を放棄して都市に人が集中するとどんどん生物多様性が失われていくという負の循環は止まらない。

 

 

 また,日本は災害大国でもある。いくら都市において快適な居住空間を整備しようとも,自然の猛威の前ではそのすべてを守り切ることはできない。

 

 

 生態系減災(Eco-DRR)というキーワードが世界的に見直されている現状をみるに,自然から切り離された都市というのは,長い目でみて効率的なシステムではないのだろう。

 

 

 自然とうまく付き合いつつ,人間も快適に生活できる,という状態を目指そうと思えば,あらゆる周辺知識を仕入れざるを得なくなることに気が付く。

 

 

 きっと,何かひとつの最適解を求めるのではなく,選択肢がいくつもある状態のほうが長い目で見て望ましいのだろうとも思う。それが何を表すのか,いまはまだわからない。

 

 

 博士論文をまとめていくにあたって,まず僕にできるのは「ただ現状を示す」ことだ。

 

 

 結局ここがまずスタート地点である。都市の中で鳥を数えて,どんな種がどんなところにいるのかを示す。そこからどのような方向に話をもっていくのかは,これから周辺知識を蓄えていく中で慎重に考えていくしかない。

 

 

 最近は人間と自然という二項対立ではなく,もう全部一緒くたにして考えたほうがいいのかもしれないと思いつつある。

 

 

 人間の生活圏の中にある自然をただただ記述する。人間もまた環境の一部であると捉える。そんな状態をスタート地点として,何か「納得のいく問い」を考える。東洋的な考え方,と僕は自分の中で呼んでいる。

 

 

 では,その「納得のいく問い」を考えねばならない。

 

 

 そのために,きっと僕はまず,既往研究で得られている成果を片っ端から見直し,自分が調査した現状の中から何かしらの傾向を見出し,これらを照合する必要があるのだろう。

 

 

 この両方を合わせて,「問い」に昇華させる。複数の主観を合わせて,疑似的に客観に結び付けるというやり方で,ある程度客観的な問いを見出せるはずだ。

 

 

 なんてことはない,これは研究の基本でもある。基本に立ち戻ってしまったわけだ。

 

 

 あとはその問いが,実際に解決可能かどうかという点が最も重要だ。そしてこれを解決できるのは僕ではない。研究で得られた知見が誰のためのものなのか,それはどのように役に立つのか,「自分」という枠を超えてものごとを見通すことができるようになれば,きっともっと見通しはよくなるのだろう。

 

 

 少しアタマの整理ができた。しかし,スランプ脱却はおそらくまだ先のお話…。

 

 

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