生活

 こちらの図書館は,勉強なり作業をするなり,非常に都合の良い空間である。

 

 

 学生さんたちも思い思いに過ごしている。ソファがたくさんあるのだけれど,横になっている学生さんの数が異常に多い。多くの学生さんたちは寮が相部屋である。4人部屋がほとんどだという。

 

 

 なかなか心休まる場所も無いのかもしれない,図書館はいろんな人たちの受け皿としても機能しているらしい。今日もそんな図書館で朝から作業をしている。

 

 

 最近は自身の「生活」について考えることが多い。

 

 

 何を隠そう,今回の厦門滞在は,この歳にしてはじめての一人暮らしでもある。少々イレギュラーな形ではあると思うけれど,日本での日々の暮らしとはずいぶんと勝手が違う。

 

 

 これはこれでよいものだと思うのは,一日がとにかく長いと感じるところだろう。普段,通学時間片道2時間は,やはりバランスとしてはおかしいことなのだと改めて気づいた。

 

 

 そんな中,日々電車に乗って移動する生活に順応しようとして生まれた,様々な習性なり思考の偏りがあるのではないかと,ぼんやりと考えてみた。

 

 

 「いかにして移動中も快適に過ごせるのか」というのは,普段の僕の生活の中でかなり優先順位の高い思考である。そんな生活と親和性が高い「よく本を読む」という習性。ひょっとすると本を読むことが好き,というのは思い込みであって,こういった移動する生活がメインであるという事情から生まれた,仕方のない習性である可能性も捨てきれないのではないかと。

 

 

 例えば,僕が一人暮らしをはじめたとして,時間があるときに本を読むことを切望するだろうか。

 

 

 時間が生まれると,他にもっとやりたいことがでてくるのではないだろうか。確かに時間が生まれた今,僕は本を読んで過ごすことが多い。

 

 

 しかしこれも悲しい適応から生まれた惰性の延長線上の行動であって,時間を活用するにあたって真に自分の頭を使っているわけではないのではないかと,不安にさえなる。

 

 

 染みついた習性というのは,それだけ強力なのだろう。環境が僕たちに及ぼす影響は,こういった非日常の場に長くいることで徐々に自覚していくものなのだと。 

 

 

 悲しいかな,大阪のベッドタウンで生まれ育った僕にとって,周囲の環境にうまく適応させた活動というものに触れる機会は少なく,身体的・創造的な生活をしていたとは到底思えない。

 

 

 何かするにしても,受け身の活動が多い。読書,ゲーム,映画鑑賞,美術館巡り,喫茶店巡り。これもまた,電車で長時間移動する生活とは親和性の高い行動ばかりである。

 

 

 改めて振り返ったときに,自信を持って「これをすることが好きです」と言える活動がないのではなかろうかと,結局はそういう思考に落ち着く。

 

 

 しかしこれは,あくまでも今までの話であって,これから先どうなりたいのか,何をしたいのかは,まだ無限の可能性があると言ってもいい。

 

 

 環境のせいにするのは簡単だが,僕たちは自ら身を置く環境を変えることだってできる。幸いにして,本を読むという行動は,僕に実に多くの経験値をもたらしてくれてはいるはずだ。そのうえで,僕はこれから何がやりたいのだろう。

 

 

 うすぼんやりと今見えているのは,おそらく受け手に終始せず,何か表現する側にも立ちたい,という思いはあるらしいということだ。例えば,論文を書くことは嫌いではない(好き,とは言い切らないが)。

 

 

 一本の論文を書き上げるうえで,実に様々なことをする必要がある。

 

 

 計画を立て,先行研究を調べ,計画し,周囲のひとたちに協力を仰ぎ,実際に調査してデータ化し,データを分析し,解析するためのソフトウェアを使いこなすためにPC言語だって勉強し,データと向き合い,それを限られた枚数・文字数の中で言語化し,目的と結論が乖離しないような構成を考え,先行研究の結果を適切に引用しつつ今回得られた結果の新規性を表現し,もし海外の学会に投稿するのであれば語学に関する知識だって必要にもある。

 

 

 おまけに発表するならばプレゼンテーションについても熟慮して,伝わりやすいスライドの構成・話の流れについても検討し,実際の数分間のプレゼンテーションの中でそれをいかんなく発揮したならば質疑応答というのもあり…。

 

 

 考えてみれば実に恐ろしく創造的ではある。受け身な自分とつり合いを保とうとして,こういった研究活動に精を出しているということも考えられる。

 

 

 魅力的な人物は,どこか特殊な雰囲気を醸し出している。それは,自分の本流以外の部分を大切にして,生きていくうえであらゆる手段でもって日々の時間を豊かに過ごす工夫をしているからではないか。

 

 

 例えば,アインシュタインはヴァイオリンをこよなく愛したと聞くし,レオナルド・ダ・ビンチは複数の分野においてその才能を遺憾なく発揮した。それだけに打ち込んでいる限り到達できない領域があるのだろうか。何かひとつを極めるというのは,どういうことなのだろう。

 

 

 「新しい何か」と出会うのに,場所は関係ないのではなかろうか。特に今回のように深く内省してみる場合には。どこにいても,何かやってみればいいのだ。

 

 

 「帰ったらやりたいことがたくさんある」。それは確かにそうだろう。でも,本当に帰らないとできないことなのか,それは。

 

 

 今すぐにでもできるのではないか?結局,先延ばしにして何もやらないのではないか,自分の慣れ親しんだものに囲まれて,満足して。本当に大切なもの,本当に好きなもの,どこまでそれにこだわるのだろう。

 

 

 あらゆる状況下でも大切にしたいと思うのが,「生活そのもの」である。

 

 

 身の回りを清潔に保つこと。身体の健康を気遣って食べるものを考えること。ちゃんと睡眠をとること。心に栄養を注げる何かをするために,ある程度時間を確保すること。いろんなひとたちと関わりをもって,ちゃんと感謝の気持ちをその都度表明すること。

 

 

 そういったことは基盤であり,基盤がきちんと整っていないと,精力的に動けない。それは異国の地であっても変わらない。

 

 

 「生活(LIFE)」。いろんな考えの原点であり,”その人らしさ”の源でもあり。生きるために最低限必要なもの,以上の何か。

 

 

 自分の中にいろんな思い・悩みはあって,それらはすべてバラバラではあるものの,みんな「生活」というものと関わりはあるだろうと思った。

 

 

 研究の方向性もまた然り,「生活」を豊かにする,という根っこがあるはず。まだまだ考えるべきことは多い。

 

 

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