「離見の見」

 投稿していた学術論文(日本語)の一回目の修正が今日,とりあえず終わった。

 

 

 慣れない異国の地での修正,初めは少々不安ではあったが,期日を10日ほど前倒してつつがなく終わらせることができて,今は胸をなでおろしている。スターバックスコーヒーにて,甘い甘いケーキをご褒美に食べている。

 

 

 ひとつの論文を終わらせるたびに,ちゃんと次に何をしようかと考えられることは,僕にとってはとても良い兆候だ。

 

 

 毎回,さっきまでやっていたことにしっかりと「飽きて」,次のことをやろうとする意欲がわく。ひとつひとつにそこまで大きなこだわりがなく,ただ続けていくことに価値を見出す。研究を続けていく上でのモチベーションはいま,それに尽きる。

 

 

 次の研究の舞台はもちろんここ,厦門である。ちゃんと構想は練ってある。明日から少しずつ準備に着手するつもりである。ようやく,ここに来た本懐を遂げられるというものだ。

 

 

 今日で厦門に来てちょうど3週間。決して早かったなとは思えない,それなりにちゃんと毎日しんどい。

 

 

 このような状況に置かれなければ考えなかったであろう様々な想念があり,それを言語化していくのも簡単なことではない。書くことは救いではあるが,決して楽しいとか,好きでやっているという感じでもない。

 

 

 どちらかというと,苦しい。それでもなお,自身の内面と向き合う時間は貴重だし,きっとどこかでそれをやっておく価値はあるとも思うから,こうして毎日時間を設けて文章化している。

 

 

 当たり前だと思って考えすらしなかったことを,突然目の前にすることで考えさせられるという機会が,こちらに来て多々ある。

 

 

 それだけ自身の感情とか感性が錆びついていたということだろう,外の世界を知るということは,自分の思い込みから解脱するうえで有効な手段らしい。日々目から鱗である。

 

 

 今日,ほぼ日の対談の記事を読んでいる中で「離見の見」という言葉に出会った。

 

 

 世阿弥能楽に関する考え方で,演者が自分を離れて観客の立場から自分の姿を見ること,らしい。いま,ちょうど欲しかった言葉と出会えたと思った。

 

 

 最近はTwitterを見ていて,坂口恭平さんと落合陽一さんが接点をもったところに面白さを感じている。きっと出会う人とは,出会うべくして出会うのだろう,と思わされた。

 

 

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学内の川。名前を知らない魚がたくさんいる。鳥に食べられる様子もなく,日々群れているのを見かける。