こちらで触れる日本
厦門に来てから,日本の文化について考えることがよくある。どうやら厦門においては日本の音楽や書籍,アニメなどは随分とポピュラーらしい。
大学にも,日本語を話せる学生さんが数人いる。彼らに話を聞くと,日本語を勉強し始めたきっかけは,日本のアニメが好きだからだとみんな言う。
大学の食堂でご飯を食べている時も,隣から何か日本語が聞こえるぞと思ったら,学生さんが日本のアニメをスマートフォンで流しながらご飯を食べているなんてこともしばしばある。
米津玄師を,街の至る所で耳にする。どうやらこちらでは大ブレイクしているらしい。
日本の音楽だとやはり久石譲はよく流れているのだが,一番驚いたニッチなところでいうと,大海原を冒険する,任天堂ゲームキューブの名作「ゼルダの伝説 風のタクト」のBGMがとある飲食店で流れていたときである。海鮮料理を提供するお店だっただけに,何か琴線に触れるものがあった。
大きなショッピングモールや大学の近くに,日本の食べ物を提供しているお店も複数ある。
博多ラーメン,焼き鳥,どんぶりなど,食べてみるとそれなりに美味しい。お店の内装はなかなかユニークな(少々日本を曲解した)ものが多いのだが,それはそれで面白い。
本屋さんで本を見ていても,日本の作者の本を翻訳したものは多い。
今日見たもので覚えているところでいうと,太宰治,夏目漱石,芥川龍之介,三島由紀夫,石川啄木,金子みすゞ,村上春樹,東野圭吾,和辻哲郎,鈴木大拙,荒木経惟,森山大道,佐藤可士和,隈研吾などなど…。
あとは日本のライフスタイルに関わる本の翻訳も多かったように思う。松浦弥太郎さんの本とか,「断捨離」に関わる本とか,何か暮らしをシンプルで暖かくする方向を目指すような本。
ここまでいろいろな場所で,いろいろな形で,日本のものに触れることになろうとは思ってもみなかっただけに,僕の中で「なぜ日本の文化はここまで自然と溶け込んでいるのだろう」という疑問が生まれた。
このような日本の文化には,他国に受け入れられるだけの共通した何か特徴があるのだろうか。自分なりに少し考えてみた。
おおもとを辿れば,僕らの文化の源流はすべてここ,中国をはじめとするユーラシア大陸の各国の文化であろう。そこからあらゆる文化が独自に醸成された結果,いまの日本の文化が育まれてきたとすれば,そこには日本の自然環境や気候風土が大いに関わっているような気がしてならない。
今,手もとにあるほぼ日手帳の後ろのほうのページを開くと,「二十四節気のこと」というページがある。
そこから文言を引用するが,“二十四節気とは,地球から見た太陽の位置をもとに,一年を24の節気に分けた「季節の指標」のこと。日本では古くから,二十四節気をさらに3つずつに分けた「七十二候」,「土用」や「八十八夜」などの「雑節」とともに,季節を把握するための目安として使われてきました。“とある。
ひとつ,この「季節」というのは僕の中の最近のキーワードでもある。「生活」を考えるうえで切っても切り離せないものだと認識している。
心の動きと季節の動きは連動するのではないか。
寒さ厳しい冬を乗り越えて見るサクラ,梅雨明けのからっとした青空,夏の終わりの鱗雲,ふと香るキンモクセイ,寒さとともに日に日に紅さを増していく紅葉。
これらはどれも,否応なしに僕たちの五感を刺激する。このような,一年を通して多様に”変化”する環境下で生まれた文化には,何か優しさというか柔らかさというか,それこそあらゆるものとの親和性が高い奥ゆかしくてあたたかい何かを,知らず知らずのうちに含んでいてもおかしくはないのかもしれない。
中国語・英語・日本語の三か国語を話せる中国出身の知り合いが,「日本語を話すとき,私は少し優しくなっていると思います。」と言っていたことが忘れられない。
日本語を修得した中国人の知り合いは何人かいるのだけれど,みんな総じて少々穏やかそうに見えるから面白い。きっと僕の中にも,日本の環境で生まれ育った僕には見えていない,生まれ育った環境特有の気候風土から受け取っている特徴があるのだろう。
「やさしさ」,「やわらかさ」,そして「しずけさ」。僕がずっと求めているものだ。そして,これらが継続的に保たれるために必要だと思っているのが,”変化”というもの,そのものである。