New BalanceのM990 (Version. 4)

  Made in Americaに限りなく惹かれてしまう。身の周りのものを見渡してみると,明らかにMade in Americaのモノが多い。

 

 

 PENDLETONのウールシャツやクーパーズタウンボールキャップ,BICYCLEのトランプ,ボールチェーンのついたラバーコインケース,LEVI’Sの501,そしてこのNew balanceのM990。

 

 

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 アメリカ製のモノに惹かれてしまうのは,高校生のころに出会った雑誌,POPEYEの影響と,アメリカンカルチャーに対するあこがれの気持ちを掻き立てられた,片岡義男さんや松浦弥太郎さんらのエッセイ,叙事的に流れるように言葉が綴られたジャック・ケルアックの「On the Road」やブローティガンの「アメリカの鱒釣り」といったビートニクの作品の数々,ヒッピームーブメントが盛んな時代におけるグレイトフル・デッドの音楽やバックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」にスチュアート・ブランドの「ホールアースカタログ」などなど,これらのすべてに強いあこがれの気持ちがあるからだと思っている。

 

 

 メインストリームとしてのアメリカではなく,そういったメインから逃げるようにして生まれたどこか退廃的でそれでいて自然との親和性が強く力強さを感じる文化の数々が好きだ。

 

 

 さらに時代は遡るが,ソローの「森の生活」やホイットマンの「草の葉」といった書籍なども,そういった文化のひとつとして捉えて,自分の中で大切なものとして重きを置いている。持ち物がどんどんMade in Americaでいっぱいになってしまうのは,好きなモノで周りを固めたいと願う心の安定を保つうえでも,仕方のないことなのだろう。

 

 

 はじめてアルバイトで稼いだお給料で買ったのは,New BalanceのML574だった。ML574は英国製のM576の廉価版である。New Balanceの入門みたいな気持ちで買った。当時はまだ,Made in Americaのモデルに手を出せるほどの余裕はなかった。このML574はたぶん4年ぐらいは履いたと思う,メッシュ部分がないすべて革張りのモデルだったから,雪の金毘羅山でもまったく染みることなく歩けた。大切に履いた。

 

 

 次に履いたNew Balanceは少し毛色が違う,M1500だった。英国製,綺麗でかっこよいモデル。買った動機は忘れてしまった。野外調査等でも結構ガシガシと履いたからか,あまり長持ちせずに履きつぶしてしまった。本当にもったいないことをしたと今は思う。

 

 

 M990との出会いは,iboughtという雑誌の創刊号を手にしたときだ。その中でM990が紹介されていた,当時はversion.3だったと思う。機能的で履き心地が抜群によく,アメリカ製であること。服と合わせるには少々難しいような,シンプルとは言い難いスタイリッシュなデザイン。一目見たときから,いつか手に入れたいと思った。

 

 

 実際に入手したのは2年前の冬,街中での調査で一日に20kmほど歩かなくてはいけないことになり,どれだけ歩いても疲れないスニーカーを探していた折りに,このM990の存在を思い出した。決して安い買い物ではない。しかし,靴は調査の必需品である。投資でもあると思って,思い切って買った。あこがれていた当時から時間は流れ,流通していたのはversion.4である。

 

 

 いま,愛用していて思うのは,これはおそらく,この先も僕のワードローブとして常にそばにあるモノなのだろうということだ。歩いていて快適…というより,ほかの靴を履いて歩いている時に違和感を覚える,というような。

 

 

 今回,厦門には靴を2足持ってきている。ひとつはこのM990で,もうひとつはVANSのERAである。ERAは,こっちで履きつぶすつもりで持ってきた,この一足もまた,現行ではワードローブのひとつである,帰国後にまた同じものを買うだろう。

 

 

 M990は,正直履いてくるかどうか迷った。実は家にもう一足,New Balanceのウォーキングモデルである,MW880というスニーカーがある,これも調査用に履いている靴だ。中国での生活でずっと履いているうちに,早く傷んでしまうのではないかという不安もあった。

 

 

 だから履いていくのはMW880のほうがいいのではないかと。それでもなおM990を掃いてきたのは,普段の生活の感触を忘れたくないと思ったからだ,おそらく多少靴は傷むだろう,しかしそれでもいいではないか。

 

 

 2ヶ月というのは,生活するうえで決して短い期間ではないと,今,痛感している。少しでも身の回りのモノにストレスを感じたくはない,M990を履いてきて正解だったと,今は思う

必需品

 厦門滞在18日目。今日は必需品について考えてみる。

 

 

 ほんの短期の旅行とか,特に拠点を構えない滞在であれば,おそらくそこまで多くのものは望まない。帰ったら日常の中でどうとでも調整できるだろうから。

 

 

 今,そう思うのは,簡単には帰れない不慣れな状況下で拠点を構えて過ごすにあたって,最低限の生活必需品以上の何かを切望するようになってしまったからだろう。

 

 

 その中でも特に渇望しているのは,やはりコーヒーである。

 

 

 ここ数日。スターバックスコーヒーに出向かない日はほぼ無いと言っていい。

 

 

 どうやら中国では普段からコーヒーを飲む文化はあまりないらしい。学生さんたちに聞いても,めったに飲むことはないと言う,それよりもタピオカのほうが好きだ,と。

 

 

 こちらで飲むコーヒーは,ほかの食べ物・飲み物と比べて随分と高価である。また,ブラックコーヒーというものに巡り合える可能性は低く,たいていのコーヒーは初めから甘い。かくして,スターバックスコーヒーに出向かざるを得ないのだが,いわゆるドリップコーヒーはメニューになく,美式珈琲(カフェ・アメリカ―ノ)を飲むことになる。

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この街で唯一クリスマスを感じる場所でもある,スターバックスコーヒー。

 今回,せっかく中国に行くのだからお茶とか現地のものを味わえばいいと,こちらに来る前は考えていた。

 

 

 が,僕の中のコーヒーに対する依存度はそんなにかわいらしいものではなかったらしい,ここにきて毎日コーヒーを飲みたい欲が止まらないのだ。

 

 

 今飲んでいるスターバックスのコーヒーだって,本当は満足のいくものではない,もう少し濃いほうがやはり嬉しい。特に京都にいると,本当にコーヒーに触れる機会が多い。まったくコーヒーに関して困ることはなかったからこそ,今の状況が苦しいのだろう。

 

 

 しかし,コーヒーそのものを渇望する一方で感じているのは,コーヒーを飲む時間そのものの愛おしさである。

 

 

 日々生活する中で,喫茶店とかコーヒーを飲める空間に通うという習性が僕の中に存在している。何か作業をするためであったり,本を読んだり,ただぼーっとしたり,その目的は様々なれど,傍らにはいつもコーヒーがある。コーヒーを飲む時間が大好きなのだと思わされた素敵な出来事が今日あったから,ここに残しておこう。

 

 

 大学から歩くこと50分くらい,官任という駅から電車に乗ってさらに30分ほどで,中山路という大きな街に行ける。

 

 

 そこにある大きなショッピングモールの中に,素敵な本屋さんがある。以前,こちらの先生に連れて行ってもらったので,今日は一人でのんびりと本を見ようと思って出向いてみた。

 

 

 異国の地,一人で気軽に立ち寄れるのは,やはり本屋さんである。しかし,今はインターネットで本を買う人が多いらしく,本屋さんは減っていると,こちらの先生は言っていた。

 

 

 本屋さんはコーヒーと同じくらい,僕にとって重要なものである。中国語の本ばかりですべて読めるわけではないけれど,本に囲まれているという事実だけで,何か救われるものがある。

 

 

 ひとつひとつ手にとって見てみると知っている本も多く,日本の本の翻訳も多いことに気が付く(村上春樹東野圭吾はこちらでも随分と人気らしい)。背表紙をただ眺めているだけでも,どんな本がよく読まれているのか,大体の雰囲気はわかる。

 

 

 これもまた,僕にとって必要な時間である。こちらの本は日本と比べるとかなり安い。はずみで森の生活のペーパーバックを買ってしまった,300円ぐらいだと思う。

 

 

 その足で,併設されているカフェに行った。別にどうってことない,ソファ席がたくさんあって,お客さんたちは静かに本を読んで過ごしている,普通のカフェである。

 

 

 英語でアメリカンコーヒーとクロワッサンを注文すると,「日本人?」とお兄さんが訊いてくれた。YES,と答えると片言の日本語で対応してくれた。ただそれだけのことで,こちらとしては本当に嬉しい気持ちになるものだ。

 

 

 テーブルに着いて,ふと思う。このなんとでもない普通の静かなカフェというものが,この地においてどれだけ貴重な空間か,ということを。

 

 

 そしておそらく,こういう場所こそ僕が最も身を置きたい場所なのだろうということを。かつてのスタンダードブックストアがそうであったように。

 

 

 パソコンを広げてしばらく作業をしていると,先ほどのお兄さんがやってきてコーヒーのおかわりを無料でくれたうえに,Wi-Fiが使えるよ,と教えてくれた。

 

 

 心地よい距離感の気配りで,また嬉しくなった。「それ辛いよ~」と後ろから声が聞こえる。振り返ると年配の夫婦が日本語で会話している,こちらに来て初めて日本人と出くわした。この場所には何か日本人を惹きつける魔法がかかっているのかもしれない,店内のBGMもすべて日本の音楽のオルゴールだったし…。

 

 

 厦門に来て久しぶり穏やかな時間を過ごすことができたのは,傍らにある特に美味しいわけでもない薄いコーヒーと,静かでありきたりな空間と,そしてお兄さんのやさしさのおかげであろう。ひとつ安らげる場所を見つけた,また何回か来よう。

 

 

 僕はきっと明日もスターバックスコーヒーに行く。最近は店員さんとも顔見知りになりつつある,日本人は珍しいらしいから。とりあえず帰国したら,京都の美味しいコーヒーが飲みたい…。

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ビジョンについて

 滞在14日目,2週間が経過したことになる,が,今,見事に体調を崩しており,ここ数日間は寝込んで療養していた。

 

 

 いろいろと張りつめていた緊張の糸が緩んだせいだと思う。ここではどうやらあまり気張って生活しなくともいいらしい,ということがわかったのだ,健康と引き換えに。元気になれば,あとはこっちのもんである。

 

 

 今回,厦門に滞在していて思うのは,僕には徹底してビジョンというものが欠けているということだ。

 

 

 ここに2ヶ月滞在することになったのも,元をたどれば自分の意志ではない。勧められるがままに,あれよあれよとここまできてしまった,つまり今回の滞在における具体的な目標は未だ決まっていないのだ,恐ろしいことに。

 

 

 最初は,とりあえず元気に生きて帰る!!!という最低限のことを考えていたのだが,体調を崩し始めて寝込んでいるうちに,果たしてそれでいいのだろうか。。。という思いがふつふつと沸いてきてしまった。

 

 

 貴重な学生としての時間を,ひとりで2ヶ月間,海外で過ごす。その経験値はおそらく得ようにもなかなか得られるものではないと,ようやく気付いたのだ。

 

 

 今の段階で思いつく,ちょっとしたやりたいことを書いておこう。

 

 

 まず,ここは図書館が素晴らしい。中国語の本はもちろん読めないのだが,英語の参考図書も豊富に蓄えられている,更なる学びのチャンスである(ディープ・ニューラル・ネットワークの原書とか中国のランドスケープエコロジー,園林に関する書籍に触れられるわけだから)。腰を据えてじっくりと本の世界に没頭できるのは,学生として滞在できる今しかできないことかもしれない。

 

 

 加えて,調査計画をきちんと立てること,これがかなり重要だろう。今回,厦門でしかできない調査,あるいは日本から来た自分にしかできないアプローチで研究内容を考えるべきだと思った,そこにオリジナルが生まれるのだろうから。

 

 

 できることならば,ここで得られたデータをもとにして,日本での結果と比較するなり参考事例として活用するなりができれば,自身の研究のアイデンティティの一部にもなりうるはず。

 

 

 そして,ビジョンの話。自身の研究の中で決定的に欠けていると痛感するのは,アウトプットを具体的にどのようにして空間に反映できるのか,という部分である。

 

 

 毎回,それっぽいことを書いて逃れてきていたのだが,そろそろもっともっと真剣に向きあうべき時が来たのかもしれない。来月のアタマまでに仕上げなければならない投稿論文(日本語ですが)の修正要求も今来ているのだけれど,そちらとも併せて,また何かステップアップできるような予感がしている。

 

 

 今回の滞在は自身と,自身の研究と向き合う非常にいい機会だと捉えれば,おそらく2ヶ月などあっという間なのだろう。まずは体調を整えてからではあるが。

 

 

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PENDLETONのウールシャツ

 セーターというものがどうも苦手。おそらく,縮んでしまったときに肌に密着しすぎる感じとか,着た時のシルエットなんかがしっくりこないからだと思う。

 

 

 ここ数年は機能性とコスパの高さを求めて,ユニクロのフリースで冬を乗り越えていた。保温機能の高いインナーのうえにフリースを着て,ウインドブレイカーを羽織れば十分に暖かいため,真冬の調査でもそこそこ耐えられる。

 

 

 しかし,フリースはどうも肌に触れていると水分をもっていかれているようで,快適ではないような気がする。天然素材で,なおかつ襟がある服を着たいと思うようになった。

 

 

 PENDLETONのウールシャツはMade in Americaで,100%ピュアバージンウールでできている。ものが良いため結構なお値段がするが,古着だと安く入手できるうえにアメリカンサイズが洗いによって縮むものもあるらしく,サイズの表記に関わらずいい感じのサイズのものに出会える可能性もある。自分に合うサイズを探し求めて,昨年の冬に京都の古着屋さんで2枚購入した。

 

 

 ウールのいいところは天然素材であるがゆえの機能性の高さだと思う。

 

 

 寒いときの保温能力が高いのはもちろん,日差しが熱いときにもそこまでの暑さを感じない,温度調節の機能に優れているように感じる。抗菌能力も高いのだろう,厦門に来てから2枚を順繰りに着ているが,不快感はまったくない。

 

 

 Tシャツの上から羽織ってもいいし,真冬にはインナーとしても着まわせるため,実質3シーズンは着ることができる。

 

 

 厦門は暖かいところだと聞いていたが,今回この2枚を持ってきて正解だった。真昼はTシャツ一枚で過ごせるのだが,朝晩は急激に冷え込むのだ。ウールシャツがあるだけで,あらゆる天候に対応できそうだ。

 

 

 そして何より,異国の地でひとりという状況のなか,自分の好きなものを身に着けているという安心感は何物にも代えがたい。

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ようやく

 厦門での生活が始まって6日目。

 

 

 ここにいたるまで実にばたばたと雑事に追われ追われ,今ようやくこうして文章を書く余裕が少し出てきた。

 

 

 入国するまでも十分にばたばたとしたと思っていたのだけれど,ここ数日はそれの比ではなかった。

 

 

 序盤はシンポジウムに追われ,シンポジウムが終わってからは現地の学生さんたちや先生方に全面協力してもらいつつ,学生カードをつくってもらったり,入寮の際の手続きから荒廃した寮の部屋の掃除のお手伝い,銀行カードの作成(結局,つくれなかったが)に至るまで,トラブルだらけでお世話になりっぱなしである。

 

 

 今,部屋でこれを打ち込んでいるのだけれど,大学内に数ある学生寮の2階の角,2人部屋でルームメイトがいる…はずなのだが,どうもここに住んでいる形跡がない。

 

 

 部屋は雑に荒れ,時が随分前から止まっているかのような。彼がここに帰ってくるかどうかは今の段階では未知なのだが,とりあえず僕もここに住まなければいけないので,掃除を徹底的に行なって自分のスペースは最低限確保した。おかげでいまはそこそこ快適である,この感じだとなんとかやっていけるかもしれない。

 

 

 周りの人たちが本当に優しい。支えられているぶん,何か別の形で返せたらいいな…と思うばかり。

 

 

 

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パブリックな空間とプライベートな空間の中間で草を食むウシ。調査中に出会う。

 

準備

 もうすぐ、厦門での2ヶ月間の生活が始まる。正直なところ,未だに実感は全くない。おそらくなんとかなるのだろう…と、楽観視している。

 

 

 今回は渡航に際して何を持っていくべきなのかを考える中で,そんなに必要ではないものは何なのか,そして本当に大切で必要なものは何なのかを見極めるいい機会でもあると思っている。

 

 

 もともと,パッキングを考えること自体は趣味のひとつでもある。

 

 

 例えば,普段から着る服ひとつとっても,かさばらないか,あるいは速乾性に優れているかなど,基準はだいたい「持ち運ぶうえで便利かどうか」というところのプライオリティが高めである(そうして,軽量かつ機能的なアウトドア系のアイテムが増えていく…)。

 

 

 できることなら,旅行先でも普段の自分と同じような状態でありたい,という守りがちな思考がはたらく,すぐにチェーン店に駆込もうとするのも同じところから来ているのだろう。平たく言うと、いろんな変化とか未知のものが怖いのだ。自分の周りだけでも見知ったもので固めたいというのは,防衛本能が働いている証拠だろう。

 

 

 適度なストレスが,自分の中の変化を促すひとつのきっかけとなる。そういう意味でも旅行とか遠出はそのひとつのきっかけとなりうるだろうが、あくまでも「適度な」という部分が大切だと個人的には思っている。

 

 

 自身が移動して非日常的な体験をする場合,自分の身につけているモノや携行するモノは使い慣れているほうが目の前の未知なものに全力で対応できるのだ。逆に言うと,日常の中ではあえて「非日常」を取り入れたくなるわけで,要はどこかしらに絶えざる変化を求めることこそが,生き生きと生活することにつながるのではないか。

 

 

 その変化はおそらく「非日常の空間へ赴く場所の変化」か,あるいは「日常における内面的な部分の変化」のいずれか一方であって,両方が同時に訪れることを僕は恐れているのだ。

 

 

 日常を深く知らずして非日常を味わうことは難しいだろうし,非日常にどっぷり浸かり過ぎると何が日常かわからなくなると思う。どちらも大切だし,いずれそこの線引きをする時がくるかもしれない。

 

 

 ともあれ,今回は大移動,圧倒的に非日常である。日常を見直す良い機会と捉えて,新しい発見や学びのみならず心の動きも大切にしつつ,携行する色んなモノについて深く考え,文章化してみることにしよう。

 

 


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次に鴨川の夕焼けを見られるのは,いつになるだろう…。